今回の原発事故は、原子力(核)が生態系のどこにも位置できない事と同時に、人類によるすべての営為が、実は無償で付与される太陽エネルギーに由来するものであるということを、私たちに思い出させ、あるいは気づかせてくれたのではないでしょうか。
中沢新一著『日本の大転換』は、「生態圏」と「太陽圏」という言葉を使って、そのことの本質的な意味合いを説き、原子力が『人間に許された限界』を超えていることを明かします。言うまでもなく、私たち人類は地球表層部の薄い層である「生態圏」に生きています。以下、同著より少しだけ引用します。
・ 原子炉内で起こる核分裂連鎖反応は、生態圏の外部である太陽圏に属する現象である。そしてこの「炉」を燃やして発電をおこなう原子力発電は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を「無媒介」のままに持ち込んで、エネルギーを取り出そうとする機構として、石炭や石油を使ったほかのエネルギー利用とは、本質的に異なっている。
・ 地震と津波は、生態圏の直下で起こる地殻の振動に原因しているから、それによって生態圏の受ける損傷は、生態圏自らの力で修復していく事ができる。ところが、いったん原子力発電所に深刻な事故が発生して、大量の放射性物質があたりにばらまかれてしまうと、その土地では、生物はその先何年もの間、生存することが困難になる。もはやその土地は、生態圏ではなくなってしまうのである。
・ なぜか。それは原子力発電所そのものが、生態圏の外部に属する物質現象から、エネルギーを取り出そうとする技術に原因がある。生態圏の外部、もっと正確に言えば、地球をも包み込む「太陽圏」の物質現象が生態圏に及ぼしたものの影響を、長い時間をかけてでも癒していく能力を、私たちの生態圏はもっていないのである。
そして、人類の経験したエネルギー革命の歴史(A・ヴァラニャック(仏)『エネルギーの征服』)を踏まえ、
・ 家の炉の火も、鍛冶師の炉の火も、火薬の火も、石炭や石油を燃やして得られる火も、すべては化学反応を利用している。そしてあらゆる化学反応は、原子のいちばん外側の軌道を運動している電子同士の結びつきによって、引き起こされる。つまり、「第六次エネルギー革命」にいたるまで、人類は原子核の内部にまで踏み込んで、エネルギーを取り出すことはしなかった。
・ ようするに、生態圏に生きる私たちの実存のすべては、安定した原子核の外側を運動する電子によって支えられている。生態圏のなかには、原子核の融合(これは太陽の内部で起こっている現象だ)や分裂(原子炉がそれを実現する)は、組み込まれていなかった。ところが、「第七次エネルギー革命」が実現した「原子力の利用」だけが、原子核の内部にまで踏み込んで、そこに分裂や融合を起こさせた。そして、化学反応や電気反応ではとうてい実現できないほどに莫大なエネルギーを、物質のなかから取り出したのである。
・ 福島原発の事故がはからずも露呈させたのは、原子力を扱う日本人の科学者の多くが、自分が専門とする分野でいったいなにがおこなわれているか、ことの本質を理解していないのではないかという、恐ろしい疑念であった。
・ 原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。いわんやそれが、「ぜったいに安全である」ことなどは、ありえようがないのである。生態圏の自然と太陽圏の「自然」を混同することほど、危険なことはない。
・ 原子炉内では、地球生態圏の内部では、自然状態ではほぼ起こりえない原子核の分裂が、連鎖的にたえまなく起こっている。そして、この分裂から、莫大な熱エネルギーが発生している。しかし、その熱エネルギーを電気に変換する装置群や、原子炉をコントロールするのに必要な電源を発電所の外から供給するシステム自体は、まったく通常の生態圏内の「古典的」仕組みでできている。
・ このように原発システムにおいては、生態圏外的な仕組みと、生態圏内的な仕組みとが、軽水(ふつうの水)や配管やコードや厚めの鋼鉄板などといった、古典的な域を超えてむしろ原始的と言ったほうがいい素材で、媒介されているにすぎないのである。
・ しかも中心部では、核分裂によって発生したエネルギーは、燃料棒のまわりに接触している水を直接振動させて、それを沸騰させ、その蒸気が配管をとおしてタービンに送り込まれている。
・ 媒介なしのエネルギー装置、これが原子力発電システムの本質である。原爆は科学者によって「制御不能となって暴走する原子炉」と定義づけられている。そう考えれば、原爆においても原発においても、この媒介なしのエネルギー装置という本質はまったく変わらない、ということがわかる。
本書はこのほか、資本主義や市場メカニズム、人間の心のつながりといったことが述べられ、「3.11以降の我々が進むべき道とは?新しい『革命』へのマニュフェスト」と帯に記されるように、これから用意されるべき第八次のエネルギー革命と、文明への提言が語られていきます。本書の紹介を兼ねて、ここではネット上で読む事ができる多くの感想や批評のなかの一つを、短めに紹介して次に進めたいと思います。
○自閉するシステムからの脱出
<前略>今日ある原発の是非の論議を、「原発推進派も新エネルギー派も」嵌ってしまう「効率論の罠」に収斂させてはならない、という思いが中沢さんにはある。「経済計算やエネルギー計量論の狭い枠」のなかでとらえていることはできない。だから「今回の『日本の大転換』では文学的な物語や修辞的な認識論の回路に一切頼らず、徹底して科学的な記述スタイルをベースにした」と語っている(「PLANETS SPECIAL 2011」)。
原子力発電からの脱却は、「たんなるエネルギー技術と産業工学の領域に限定される影響を及ぼすばかりでなく、わたしたちの実存のすべてを巻き込んだ、ラジカルな転換」をもたらすことを明らかにする。
ここから彼は、「贈与」をキーワードにしながら、「現代の資本主義からの脱出の可能性」(人類の本性によりふさわしい形態への変容)へと思考を進める。めざされるべきは「第八次エネルギー革命」であり、それは経済に「太陽と緑」の次元を取りもどすことになる、と。
「贈与」の問題などさらに考えるべき課題は残されているが、大きな方向性としては、わたしたちがこれから進むべき道のアウトラインをわかりやすくみごとに描いている。「日本文明が根底からの転換をとげていかなければならなくなった」との冒頭のメッセージに同意したい。(スロー風録~素浪人の風録)
次に、動画を紹介します。
東日本大震災の被災者である子供たちや子をもつ親の証言を通して3.11の津波と原発事故のその後を紹介するBBCドキュメンタリー(2012年3月1日放映)です。
BBCドキュメンタリー「津波の子供たち」”Japan’s children of the tsunami ” 3:11(58分28秒)
BBC(イギリス放送協会)の制作でナレーションや字幕は英語ですが、証言は日本人、つまり日本語です。英語がわからなくてもまったく問題ありません。当事国の住人である私たちにとっては、その証言だけで充分すぎるほどです。
子どもたちは、インタビュアーに語るのではなくカメラに向かって語ります。カメラの向こうの未来に向かって語ります。その子どもたちの視線。その眼の輝き。一方で、遠くを見やる表情とその眼に顕れる例えようのない深い哀しみ。幼い心に押し寄せた一瞬の大地震と大津波、そして放射能という非日常の体験。画面を通してではありながら、この子たちの視線についたじろいでしまいます。秀逸なドキュメンタリーです。
最後に、姐さんとの関連のなかで見つけた一篇の詩をご紹介します。
本サイト一昨年の2010年1月28日付けで、碧南市の大浜音頭(作詞:河井醉茗、作曲:藤井清水)という民謡を紹介しました。
その際、作詞者の河井醉茗について確認したとき、一篇のすてきな詩に出会いました。ただ、その時は、新民謡の歌詞というものが、野口雨情を例に出すまでも無くかなり優れた詩人たちの手によって生まれたものであることを再確認しただけでした。
しかし、その時出合った河井醉茗のこの一篇が、東京電力福島第一原子力発電所の爆発、メルトダウンという事件の後、にわかに光と潤いを帯びて眼前に蘇えりました。
子どもたちよ、と呼びかける、1932年に発行された詩集「紫羅欄花(あらせいとう)」の中の『ゆずり葉』という一篇です。3月11日を前に、この詩を掲げて当サイトのメッセージにしたいと思います。
河井酔茗『ゆずり葉』
子どもたちよ
これはゆずり葉の木です
このゆずり葉は
新しい葉ができると
入れかわって古い葉が落ちてしまうのです
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉ができるとむぞうさに落ちる
新しい葉に命をゆずって──
子どもたちよ
おまえたちは何をほしがらないでも
すべてのものがおまえたちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません
かがやける大都会も
そっくりおまえたちがゆずり受けるのです
読みきれないほどの書物も
みんなおまえたちの手に受け取るのです
幸福なる子どもたちよ
おまえたちの手はまだ小さいけれど──
世のおとうさん、おかあさんたちは
何一つ持ってゆかない
みんなおまえたちにゆずってゆくために
命あるもの、よいもの、美しいものを
いっしょうけんめいにつくっています
今 おまえたちは気がつかないけれど
ひとりでにいのちはのびる
鳥のようにうたい
花のように笑っている間に
気がついてきます
そしたら子どもたちよ
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときがくるでしょう