さて、皆さん、内海桂子さんをご存知ですか?
そう、言わずと知れた漫才界の大御所、桂子・好江の音曲漫才コンビで一世を風靡、現在は社団法人漫才協会の名誉会長という凄い方です。
その桂子師匠、1923年生まれの御年88歳(1921年生まれという説も)。
にも関わらず驚く無かれ、何と“ツイッターのアカウントを取得し、自らの言葉でツイートを1日数回程度の割合で行い、好評を博している”のだそうです。
実は、姐さんの事に触れられている桂子師匠のツイートがある、との情報からこのことを知りました。2月3日のつぶやきで、以下、その全文です。
今日は赤坂の豊川稲荷で豆まきをします。これで今年も明けるわけですね。数えたら戦後直ぐからですので六十年は豆まきをしている事になります。赤坂小梅さん、大鵬横綱、フランキー堺さんその他にも懐かしい方々が思い出されます。こういった行事は年の決め事で参加出来ることの嬉しさがございます。
http://twitter.com/utumikeiko/status/33001938119303168
桂子師匠とも接点があったのですね。とにかく一番先に姐さんの名前が出てきて。
何だかやっぱり嬉しいですね。
ところで桂子師匠、最近ではこまどり姉妹の人生に迫ったドキュメンタリー映画『こまどり姉妹がやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』に、浅草を歩くこまどりさんと偶然出会うところが撮影されて映画にいかされ、私たちはそのお元気なお姿を見ることが出来ます。
ついでながら、この映画も傑作です。
※姐さんに関わる情報等をぜひお寄せ下さい。
私たちの強力な援軍でもある北九州SPレコードを聴く会の安部嘉郎さんからは、「小梅姐さんのレコードも結構PR版があります。今後『未知との遭遇』があるかもしれません」と、大変楽しみなコメントを寄せて頂きました。大いに期待してその遭遇の情報をお待ちしたいと思います。
また、日本民謡協会鹿児島県連合会の勝江聖風会長から、地元屋久島の民謡「屋久島マツバンダ」を、姐さんの唄声で聞きたいとの要望が寄せられています。
学術的に掘り起こされたものでなく、姐さんの節を参考に、民謡人の使命としてぜひ唄ってみたい、広めたい、と仰っています。
ところで、この「屋久島マツバンダ」、姐さんが吹き込んだレコードはあるらしいのですが、今のところそれ以上の手掛りはありません。恐らく安部さんの言うPR盤、今で言う自主製作盤のような形での出版だったと思われます。
情報をお持ちの方、些細な事でもかまいませんのでぜひお寄せ下さい。
●Eメール koume-nehsan@mail.goo.ne.jp
「天草民謡」というタイトルについて、吉松英夫さんより追加の情報が寄せられました。
一番の唄い出しの歌詞を取って、「帰りそこねて」という曲として親しまれていたようです。
そう言えば、端唄や小唄、さのさ、都々逸などの俗謡から、清元、常磐津など一連の邦楽のタイトルは、概ね唄い出しのフレーズですものね。
また、横田良一さんについても、以下のような訂正を頂きました。
「横田さんがレコーディングした曲数は50曲以上ではなく、100曲以上です。
(横田良一伝にわかっている曲名が50曲掲載されていましので、以前は50曲以上と考えておりましたが、その後の調査で、100曲以上を確認しております。)」
ちなみに、この横田良一さんは26歳で夭折されたそうです。
古賀政男などとも親交があり、「古賀政男大全集~20世紀の遺産」に、横田良三の名で『情人の唄』が収録されています。
26歳の若さで100曲以上となると、もし長生きされていたらきっと日本を代表するような歌手になられていたかもしれません。
出身地の牛深市で毎年行われているという「横田良一祭り」への牛深市民の想いというものが、何となくわかるような気がします。
小さな小さなご縁ですが、牛深の皆様にも『小梅姐さん』を観て頂きたいなあと思いました。
吉松英夫さんから添付ファイルで提供して頂いた資料は、天草小唄とこの天草民謡の歌詞が記載された、随筆集『天草島』吉見教英著(郷土新聞みくに社社主)の表紙と関連ページ、 『横田良一伝』(浜名志松編著作)のなかの吉見教英氏執筆部分、みくに新聞(昭和8年9月20日付/上記本の一部)のコピー、およびレコードの写真(コロムビア、ニッチク)という、文字通り貴重なものでした。
『天草島』表紙(吉松英夫さん提供)
書物には、レコード出版という当時(昭和8年)の大衆文化の最先端を使い、地域の活性化を目指して観光宣伝に励むその意気込みなどが異口同音に語られており、現代と変わらぬ当時の有様が伝わってきます。
特に当時は、「全国的に小唄が流行し、殊に観光宣伝には不可欠のものとなっていた」(『天草島』)ようで、横田良一という人が先頭に立って引っ張り、A面となる「天草小唄」は自ら吹き込んでいます。
なお、この横田良一さんは、50曲以上もレコーディングされているほどの歌手で、天草の牛深では『横田良一祭り』が今年も9月25日(土)・26日(日)にクラッシックコンサート、天草小唄サンバの踊り競演などが予定されているそうです。
吉松さんによると、昭和9年3月長崎と雲仙で開催された『国際産業観光博覧会』にあたって発表された「長崎博覧会の歌」を吹き込んだのが横山良一で、B面の2等入選歌「崎陽小唄」が姐さんというわけで、この横山良一と姐さんは、都合2枚のレコードを共にしているということです。
さて、その「横田良一伝」の中から、資金集めの様子など、北九州のことなども出てきますのでいささか長くなりますが引用してみたいと思います。
「・・・さてその資金が幾ばくを要するか、まあ五百円は入るだろうとの事。レコード会社で自ら企画して、全国的に販売して採算のとれるものならとにかく、地方のもので、こちらの注文品だから相当の金が入るというのである。
そこで、私は横田と二人で熊本電気の上田万平社長を大江町の自宅に訪うて百円の寄附約束をした。
・・・二人は、これに力を得て八幡市に向かった。八幡には郷土の先輩中井励作氏が製鉄所長官をしているから、これに相談したら必ずできると信じたのである。しかし、中井長官は上京中で不在だった。
二人はガッカリしたが、元天草支庁長の鶴田豊氏が戸畑市長をしていたので、これを襲撃する事とし、二人でその私宅に出かけた。鶴田氏も我等の意のあるところを諒とし、翌日戸畑市役所で五十円を渡してくれた。これで先ず横田の上京旅費はできた。
私と駅で別れた横田は、製鉄所の宿舎に住む親元に帰って、その翌日上京の途についたのだ。八幡で泊まった宿は「とみや」という高級の旅館だった。
<中略>
・・・作曲を古賀政男に依頼するはずだったが、病気でできなかったので、大村能章に持っていった。
大村氏は天草特有の情調をだすために、ハイヤ節や新地節などのメロディも聞いた上、作曲にとりかかった。そこでA面の天草小唄は横田が吹きこみ、B面の民謡は小倉生まれの小梅にきまった。
歌手の横田も作詞の平野も肥前も同年の二十三歳で、小梅は少し上だったかも知れないが同じ九州出身だった。
小梅は中井氏などもヒイキにしていたらしい。<後略>」
姐さんの吹き込んだ民謡が、新たに1曲見つかりました。
当サイトの民謡リストのページに、吉松英夫さんという方から8月30日、「天草民謡 作詞:肥前泰隆 作曲:大村能章 1933年(昭和8年)12月 コロンビアレコード赤坂小梅さんが歌われています」というコメントが寄せられました。
早速、投稿して頂いた吉松英夫さんとやりとりをさせて頂き、その歌詞や貴重な資料などを送って頂きました。
その歌詞をご紹介したいと思います。
天草民謡
深海村 肥前康隆作詞 大村能章作曲 東京赤坂 小梅吹込
1.帰りそこねて 月夜の濱で 川原かにめが ヤレ思案顔
2.知らぬ船来て 十字架立てて 帰りゃ椿の ヤレ花咲いた
3.瀬戸の開閉(あけ)橋 又待たされて 白帆通る間に ヤレ月が出た
4.濡れてションボリ 島入りつばめ 夢の夜床にゃ ヤレ耶蘇の鐘
.
吉松さんによると、
「この歌詞は、観光宣伝、雲仙天草国立公園指定運動に力を入れていた横田良一の発案で、公募作品のなかから選ばれたもので、天草小唄(横山良三=横田良一)と天草民謡がコロンビアレコード(昭和8年12月、番号27607)で発売された」
ものだそうです。

写真提供、吉松英夫さん
.
ところでいささか驚いたのは、「天草民謡」という曲のタイトルでした。
「大分県民謡」の場合も、これが曲名であることを勉強不足もあってにわかには信じられませんでした。
ただ、この「大分県民謡」という前例があったので、この「天草民謡」という曲名にとまどいはありませんでしたが、逆にこういうネーミングの曲が熊本にもあったとなると、他の地域にも見過ごされている「○○民謡」という曲があるのではないか、そしてそれはひとつの風潮として案外各地で誕生していたのかもしれない、という新たな関心も湧いてきました。
こうしたことについてご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご教示願いたいものです。
いずれにしろ、これで熊本の民謡は11曲になりました。
吉松英夫さんどうもありがとうございました。
一昨年、当サイトの民謡リストのページを全面的に書き直し再アップした際に、訂正前の内容と共にそのページに寄せられていたコメントまで消失してしまいました。コメントを寄せて頂いた方に大変申し訳ない思いでずっと気になっていたのですが、このたび、そのページをコピーしテキストで保存されていた方がいて、提供していただきました。
そのコメントを、あらためて民謡リストのページに投稿させていただき、投稿して頂いていたお二人に、この場を借りてそのご報告と共に、衷心よりお詫びを申し上げたいと思います。
最初に投稿していただいた方は、このご投稿を契機に本作の上映や、姐さんの音源確認、発掘収集などでサポートして頂くようになり、このサイトでも時折り紹介してすっかりお馴染みになりました北九州SPレコードを聴く会を主宰されている安部嘉郎様です。実は、旧ページを保存され今回ご提供いただいたのは、この安部嘉郎様です。感謝のほかに言葉もありません。
2件目のminmin様は、民謡を研究されている大分在住の方で、大分県の民謡を紹介していただきました。したがって、このたびの大分上映前にどうしてもこの消失したコメントを何とかしたいと思っていたところでした。何とか間に合いました。あらためて当サイトを覗いていただければありがたいのですが・・・。いずれにしろ、ご報告が遅れた事と併せ申しわけありませんでした。
ついでながら、minmin様のご教示もあって姐さんがレコーディングした大分県民謡は、少なくとも12曲を数えます。これは、地元福岡県の23曲(本日現在)に次ぐ多さで、姐さんと大分との関わりに少なからず関心を持たざるを得ません。今回の大分上映で、そうした情報が寄せられることを期待したいと思っています。
姐さんのレコーディングした民謡がまた1曲見つかりました。
大浜音頭(作詞:河井醉茗 作曲:藤井清水) 碧南市
情報をご教示頂いたのは、今回もまた北九州SPレコードを聴く会を主宰する安部嘉郎さん。
「小倉旭券梅若の名で大浜音頭という曲がビクターから出ており、作詞:河井醉茗、作曲:藤井清水の新民謡、とりあえずお知らせを」というものでした。
ネットでの検索で、愛知県碧南市に同名の民謡があることを確認し、同市の観光協会に問合わせたところ、早速大変ご丁寧なお返事を頂きました。
レコード化された際の歌手まではわかりませんでしたが、作詞作曲者が同じなのでまず間違いないと考えてよさそうです。
お返事によると、現在では知ってる人もほとんどいないそうで、地元の一部の方が今でも踊ることがある、ということだそうです。
なお、そのいきさつについては、この音頭が唄い踊られていた大浜地区の散策の拠点で憩いの場でもある「まちかどサロン」という施設にあった展示物から、また「大浜音頭」の歌詞は、碧南市史料第53集からのものだそうです。
大浜音頭物語
「大浜地区は、漁業や海運の基地として古くから栄えたところ。近くの玉津浦や新須磨の海岸は、三河湾屈指の海水浴場としてにぎわいました。
『大浜音頭』は、こうした繁栄を背景に大正の初めころつくられたようです。当時の有名な詩人河井酔茗の作詞、藤井清水の作曲です。また島田豊が振り付けを行っています。昭和初期にはレコード化され、宴会などの場で歌われました。
『大浜音頭』は、みりん、三河木綿などの大浜の特産物、名所旧跡、歴史が詠みこまれたゆったりしたメロディーの民謡。戦争が激化するとともに歌われなくなり、戦後、市民が口ずさむことはすっかり少なくなってしまったようです。」
ちなみに、藤井清水の作曲年表によると、この曲が作曲されたのが昭和4年11月15日となっており、姐さんが清水と共にコロムビアに移籍し、赤坂小梅と名乗る昭和6年頃までの間に吹き込まれたものだと思われます。
ただ、この「大浜音頭物語」にあるように、大正の初めころに作られたようだ、ということであれば、元唄となるようなものがあったのかもしれません。いずれにしろ、以前このサイトで紹介した「ノーエ(農兵)節」(三島市)のいきさつのように、新民謡大浜音頭として結実していくまで、作詞作曲者の取材はもちろんレコード発売のキャンペーンなど、様々なドラマが展開されたことでしょう。
大浜音頭 作詞 河井醉茗 作曲 藤井清水
1)出船 入船 もやい船 此処は大浜 良い港
ヨイサァ来て見よ 衣ヶ浦にヨー そらエンサカホイ
風は吹いてもトコセ波立たぬヨー ハーアサラリョーサラリョー サンサラリー
2)うわさァ 菊間藩 陣屋跡 由緒訪ねりゃ 鐘が鳴る
港橋から浜辺へ出ればあヨー そらエンサカホイ
町は広がるトコセ灯は続くヨー ハーアサラリョーサラリョー サンサラリー
3)音に聞えた 大浜味醂 それになすびのからし漬
三河木綿もお国の自慢 そらエンサカホイ
着せてやりたやトコセ織りあげてヨー ハーアサラリョーサラリョー サンサラリー
4)夏の海なら キスを釣り 秋の海なら ハゼ釣るー
行こか新須磨 名所の一つヨー そらエンサカホイ
拾って見たいよトコセ子安貝ヨー ハーアサラリョーサラリョー サンサラリー
5)月のほかには たれが見る 波のほかには たれが聞く
君と嬉しや 小舟の中でヨー そらエンサカホイ
晴れて月夜のトコセ玉津浦ヨー ハーアサラリョーサラリョー サンサラリー
6)好いたお方の どこに似たあー 歩く姿にちょいと似たー
松が笠ぁさす 権現崎ヨー そらエンサカホイ
雨は降らねどトコセ笠松がヨー ハーアサラリョーサラリョー サンサラリー
もちろん民謡リストに追加いたしました。
NHKラジオ第一放送で26日(土)、年忘れ!夢の紅白歌合戦という、過去59回にわたって繰り広げられた紅白歌合戦の、“時代を超えた夢の対決”というラジオならではの番組が3時間半にわたって放送されました。
姐さんは第4回出場時の“おてもやん”で登場。対する白組は氷川きよしさん。昨年出場した際の“きよしのズンドコ節”で先行。まさしく“時代を超えた夢の対決”という趣きで、当代きっての売れっ子演歌歌手である氷川きよしさんとの組み合わせは、歌謡界における姐さんの位置を示すのに充分という放送でした。
“唄うことが楽しいという小梅姐さんの言葉もございます”、という男性アナの紹介がありました。
映画が完成した後、宣材(ポスター、チラシ)やパンフレットの制作に入るのですが、その際、姐さんを体現する言葉が、それも姐さん自身が発した言葉が欲しいと思い、再度資料や証言をあたりました。その中で見つけたのがこの言葉で、それはラジオのインタビューの中にありました。パンフレットの表紙見返しに大きく扱い、チラシには裏面の左肩、タイトルの横に配しました。
百歳まで生きて唄おう、
百歳以上になっても
唄っていたい、
その意気でなければ
ダメなんですよね。
唄えなきゃ
何にもなりゃしない。
唄うことが
楽しいんですもの。
赤坂小梅
この言葉は、インタビューでは問いに対する答えというふうに流れの中で語られていました。こんなふうに姐さんの思いを託す言葉として記録することで、まさしく小梅の言葉として命を持ち始めています。この映画製作のささやかな副産物なのかもしれません。
6月8日付けの当ブログでご紹介した福岡県苅田町の「かんだ小唄」、そのレコード発見とご健在の作詞者大石八千代さんのことを、苅田町の広報紙「広報かんだ」(7月10日号)が紹介してくれていました。
この「かんだ小唄」と姐さんとの縁をさらに深めようと、姐さんの出身地川崎町文化連盟様より苅田町文化協会様をご紹介頂き、先日13日試写会を兼ねてご挨拶に出向きました。
その際、この広報紙を頂きました。表紙を飾り、特集として巻頭見開きという破格の扱いです。
こんなふうに全国各地、姐さんの唄が地域を結びます。
苅田町での上映会が実現することを願いながら、津々浦々さらに多くの地域が映画の上映を通して結ばれていくことを夢想せずにはいられません。
「広報かんだ」(7月10日号)
菊池淡狂さんが亡くなられました。
映画をご覧になった方ならご記憶にあると思いますが、「小梅さんは忘れることができないね。ほんとにかわいい顔するんだよ、太ってるくせに。・・・」と、軽妙な語り口で姐さんの天分は民謡にあったと喝破した、財団法人日本民謡協会理事長代行にして、日本民謡の生き字引のような存在の菊池淡狂さんが、去る8月13日にお亡くなりになりました。
ご遺族の強い希望で、葬儀は親族のみの密葬で執り行われたそうですが、明後17日「菊池淡狂氏おわかれ会」が開かれることになりました。
私たちにとっては、証言者のお一人というレベルを超えた存在でした。
製作前にはじめて日本民謡協会をお訪ねした時、たまたま出社の日だった淡狂さんは、私たちの製作意図に大いに共感を示され、本来なら民謡界がやるべき仕事だ、と協力と後援を即決で約束して頂きました。そして赤坂小梅という歌手の存在の大きさを、カメラマンを同行させればよかったと悔やむほどに、饒舌に語ってくれました。
その後も、取材や撮影、試写会等でお会いするたびにお元気なお姿に接していただけに、急逝という印象は否めません。享年89。謹んで哀悼の意を表したいと思います。合掌。
この夏、小倉時代の姐さんと一緒に踊りを習っていたという人が、今もご健在で大分県にいっらしゃるという情報が寄せられました。過日、私たちはこの情報をもたらして頂いたFさんのご案内で、お話を伺いに出向きました。
宗カズエさん。1916(大正5)年1月15日生まれ。
姐さんより10歳年下です。
旧小倉駅前(移転前の駅舎は現西小倉駅の東200メートル付近)にあった「富士屋食堂」の娘で、6歳下の妹、君子さんと、旧小倉市大門(だいもん)の路面電車電停前にあった“浅野舞踊団”で踊りを習っていたそうです。
姐さんの自伝「女の花道」によると、この浅野舞踊団こそが、藤井清水、野口雨情らに小倉花柳界一の美声として小梅を引き合わせ、その後の彼女の活躍の契機を作ることになるのですが、そこには芸妓たちだけではなく、宗さん姉妹のような一般の婦女子も習いに行っていたようです。
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姐さんの民謡リストに、また新たな1曲が加わりました。
「かんだ小唄」(作詞:大石八千代、作曲:平川英夫)。
情報をご教示頂き自らその現物を入手されたのは、本サイトでも時々ご登場願っている「北九州SPレコードを聴く会」を主宰する安部嘉郎さん。
しかも作詞者がご健在だと分かり、安部さんは去る1日、その大石八千代さんの元を訪れました。その経緯を朝日新聞が取材、5日付で大きく取り上げてくれました。
30日(土)、福岡県糟屋郡新宮町のそぴあしんぐうで行われた上映会は、決定からわずか一月足らずの準備期間という条件にも関わらず、300人のお客様にご来場いただきました。
主催してくれたHさんの持ち前の行動力、ドライヴ感というかそのスピード、そして何より人徳で、このマイナーの極みともいうべき本作を、ここまで立ち上げてくれました。
また、そぴあしんぐうを運営する財団法人新宮町文化振興財団の、松尾理事長をはじめとする職員スタッフの力強いご支援とご協力がありました。上映環境もほんとにいい形で作り上げて頂きました。
新宮町文化協会や監督山本眸古の出身校である福岡県立新宮高校同窓会の応援がありました。
直接、間接お客様からの声も寄せられました。
・小梅姐さんの唄の度に拍手しようと手が反応していて、最後は私から拍手しようとしたら周りから拍手が起こった。
・気がついたら拍手していた、という感じ。すごく自然に。
・上映後拍手なんて聞いた事もした事もありませんでした。本物は凄いですね。
・夜勤明けにも関わらず、すっかりハマって見ちゃいました。大好きだった患者のおばーちゃんとだぶって、、、おてもやんと炭鉱節が得意なカッコイイおばーちゃんがいたのでした。民謡が心地良く、私もおばちゃんになったのねと感じました。母たちも喜んでました。心のリフレッシュができ、ありがとうございました。
・・・・
諸条件からすれば大成功といっていい上映会となりました。
これで、シネテリエ天神での公開に少しは弾みがつきそうです。
また、戦時中実際に姐さんの慰問を受けたという方が、「懐かしくて」と来場されました。
陸軍航空総軍直轄第52航空師団(師団長:山中繁茂中将)所沢航空教育隊(隊長:毛利敬四郎中佐)所属の少年航空兵。
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とはいえ、まだまだ調査途上です。多くの間違いを残したままかもしれません。
皆様方のご指摘や情報をお知らせ頂ければ幸いです。
いずれにしろ、映画の完成から今日まで、多くの皆様から情報が届けられました。
その成果の一端は再版したパンフレットに掲載しましたが、その後もさらに姐さんの唄った民謡が“発見”され続けています。このサイトでの更新の所以です。
今後も“新発見”や間違いの訂正等で更新を続けたいと思います。
もちろん、そうそう簡単に更新できるとは思われませんが、時折り覗いて頂ければ幸いです。
ところで、県別に分類してみると47都道府県のうち、埼玉、山梨、福井、新潟の4県の民謡を見出すことができませんでした。
事実はどうなのか、これもまた今後の課題です。