2008年06月12日

玄界灘に向かって

「玄界灘に向かって」と題された姐さんへのインタビュー記事があります。1981(昭和56)年5月18日から6月13日まで27回にわたって、西日本新聞の聞き書きシリーズの一環として連載されました。
この記事の入手が、企画から製作へと私たちが意思決定する大きな契機となり、事実製作にあたっての私たちの底本となりました。
一方で、製作への協力依頼や完成後の上映協力要請の為の重要なツールとして、この記事をおおいに活用させてもらいました。

この記事が、同紙筑豊版の<筑豊プレイバック>という企画で、先日6月7日から週1回(土曜日)、10回の予定で始まりました。地域版という紙面の事情もあって、特に筑豊に関連する内容に限定しての10回ということらしいのですが、この再掲が筑豊の人たちにあらためて小梅さんを認識して頂く機会になればと、反響を大変楽しみにしています。

ところで、

姐さんについてはもうひとつ、『女の花道』(けいせい出版)という自伝があります。
「玄界灘に向かって」の掲載よりひと月早い1981(昭和56)年の4月に出版されています。
こちらも随分参考にさせて頂きました。
この本の面白さは、自伝にもかかわらずあとがきに記された姐さんの告白にあります。

「・・・生意気に私が書けるわけがございません。本当は正直に申し上げてはいけないことかもしれませんが、私は嘘をつくことのできない性分の女です。
最初にお断りしなくてはいけませんのに、おしまいになって申しわけありませんでした。」

この一文を巡っては恐らくそれなりのやり取りがあったと思うのですが、姐さんッ!とつい声を掛けてみたくなるほど、赤坂小梅の本領が如何なく発揮され、実に痛快です。
なにしろ本文中には、例えば生い立ちの紹介では、福岡県田川郡川崎町生まれと書いてあるのにも関わらず、別のページでは
「そして本篇の私、赤坂小梅は熊本県出身で、代表作は『黒田節』である。」
などと書かれています。アブナイ、アブナイ。

「玄界灘に向かって」に戻ります。
私たちは、聞き手である西日本新聞記者の小田切慶一氏に取材当時の様子や、記事にしなかったこぼれ話や裏話をお聞きしようと消息を尋ねました。ところが、このインタビューの翌年に定年を待たず退職されていること、さらに2002年に鬼籍に入られていたことがわかりました。
奥さんは「主人が生きていたらきっと喜んだろうに」と本作の進展を気にかけて頂き、ひょっとしたら取材メモが残っているかもしれないと探してくれました。しかし東京支社勤務の時のお仕事ということもあって、残念ながらありませんでした。
今回の再掲は、彼岸の小田切記者と、そして何より奥さんに喜んで頂けるものと思っています。

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